義理と人情の親分
清水の次郎長と兄弟分

形の原の斧八親分

「次郎長三国志」村上元三作(一部抜粋)

時は嘉永元年頃,渡世人の常とはいえ、次郎長一家は旅から旅の世を送って、一

ケ所に落ち着く事はすくなかった。今は清水を出て旅をしていた。目的は保下田の久六を追って西荷に向かって居た。本人が一宮方面に居ると言う事を聞いて、また、熱田から岡崎・藤川を経て,御油の常吉の家を訪ねた。下地に家があり,下地の常吉とも呼ばれていた。三州平井の大親分雲風の亀吉の実弟で、渡世上では吉良の小川の武一の弟分に当たり、次郎長とも付き合いがあった。平井の亀吉は黒駒の勝蔵と兄弟分の盃を交わしていた。渡世人の付き合い関係も義理人情に拠るのも大きいが一般社会と同様利害によるものも多分に在り、複雑な面を醸し出している。昨日の友も今日は敵、その反対も又有り得る。平井村は今の小坂井村の南よりの辺り位置している、豊川沿いでも在る。次郎長の子分で凶状持ちの森の八五郎が、甲州辺りの渡世人の家に草鞋を脱いでいる、と言う情報も次郎長の耳に入っていた。大政達清水一家の面々は一応清水に帰った。

そして新メンバーーを組んで甲州へ向かうこになった。大政は留守居である。

        斧八と次郎長の出会い

―――脇息を枕に、森の八五郎は、大の字になっておさつと、言う名の女子との濡場を空想して、また、猿屋一家の様子を探る段取りを考えていた。

三十分程経って、おさつがまだ戻って来ないので、八五郎は起き直り、手を叩いて呼ぼうとした時、廊下をどやどやと近づく足音が聞こえた。はっ、として

脇差を引き寄せる間も無く、いきなり唐紙が開いて、五・六人の博奕打が飛び

込んできた。「清水一家の犬だな」

喚いて飛び掛かるのを、二人程投げ飛ばしたが、中に一人、相撲取りのように体の大きな男がいた。その男が、八五郎の手から無造作に脇差を鞘ごと奪い畳へ捻じ伏せてしまった。「さあ、観念しろ」

一人が八五郎の肩へ足を乗せて、

「間抜け目、この店は、勘助親分のやっていなさる家と知らねえで飛び込んだのか、おさつという女中の注進でこうして駆け付けたんだ。ただっ殺して呉れるから覚悟しろ」       「そうか」八五郎は、苦笑いをして、

「女に一杯食ったとは、我乍らだらしがねえ。どうとも勝手にしやがれ、おいおい俺を抑え付けている大男、一寸手を緩めたらどうだ。こうなったら俎の鯉だ、びくっともするんじゃあねえ」

「悪う思うな」その大男は、少し手を緩め、言い訳のような事を言った。

「俺は、清水一家に恨みも何もある者じゃあねえ。祐典一家へ草鞋を脱いだ旅人で、三州形の原ノ斧八と言う者だ」

所は甲州で、祐典仙之助・猿屋の勘助が次郎長に備えているところでした。

処が、それらが江尻「清水の宿場名」の大熊の縄張りを荒らしたのが、事の起こ りでした。次郎長は桶屋の鬼吉・関東綱五郎・森の石松・法印大五郎他若者五人・お蝶を入れて総勢十ニ人・江尻の大熊は、佐平始め六人ときまった。

「親分、旅人が訪ねて参りました」と大政が取り次ぐ

「何だ、助っ人か、そんなら断れ」と次郎長  「いえ、祐典一家に草鞋を脱いでいる三州形の原の斧八という者だ、と名乗りましたが」

「祐典一家の旅人だと。まあ、待て待て」と次郎長は、いきりたつ子分達を制した。

次郎長一行は、円山に入ると、津向の文吉の代貸・石和の勘太郎が出迎えにきていた。

「この度の事、二度目でもござんす、し、祐典の方が非道と存じますが、手前親分が先方に掛け合って居りますから、二日だけお待ちを願います。今、親分さんがいきなり甲府へ乗り込んでは、向こうの網の中へ飛び込むも同様と存じ

ますので、甲府の手前、鰍沢で足を御とめ頂きとうござんす」

勘太郎がそう言うので、次郎長も大熊も、文吉の顔を立てるため、甲府へ乗り

込まずに、鰍沢に宿をとった。鰍沢は甲府まで五里、富士川の流れに沿って、景色が良いので知られている。

旅籠に一晩泊って、翌日の朝、甲斐の祐典の家に草鞋を脱いでいる旅人、形の原の斧八という男が訪ねて来たというのだった。

「兎に角、通してみろ」と、次郎長が言うので、取次ぎに出た関東綱五郎が、

次郎長の居る二階の部屋へ、間も無く、一人の博徒を連れて来た。

「お控えなせえ」廊下に座って仁義を切ろうとする相手を、次郎長は、

「急ぎの用を控えている俺だ、仁義なしには言ってくれ」

声を掛けると、その男は、長脇差を廊下へ置き、敵意のないのを、示してから、座敷へ入ってきた。         次郎長の子分達は、何れも長脇差を引き付け、油断せずに其の男を睨み付けた。

年の頃ニ十七・八だろう。体の大きな目付きのぎょろりとした、相当にこの道で修業をつんでいると思われる男で、綺麗に月代や顔も剃り、着ている物は次郎長一家と同様に木綿だが、こざっぱりして、感じは悪くない。左のこめかみに、刀創のあるのが、この男の顔に凄味をつけている。

「私は、三州宝飯郡形の原の斧八と申す者でございます」。

丁寧に改めて名のってから、「甲斐の祐典親分にたのまれ、一宿一飯の義理から次郎長親分の御身内衆、森の八五郎さんを」

「やっやっやっ殺ったのか」と石松がどもりながら、片膝立てると、斧八は、

にやりと、笑って、「いえ、生け捕り2しました」

「このどん畜生、ようも八五郎を」、法印が喚きたてたが斧八は、悪びれもせず「訳をよく存じませんで、等と男らしくねえ言い訳は致しません。ただ祐典親分に愛想が尽きましたので、お詫びにまいりました」

「祐典は、八五郎をどうしたね」次郎長が聞くと、斧八はきらっと目を光らせ「次郎長は何時来る、ぬかせ、とひどい責め折檻でございます。八五郎どんも我慢強い男で少しも音をあげません。こいつはやっぱりいい親分を、持って居る為だと、つくづく感じ入りました」

「アッアッアッ当たり目えでえ」と石松が、そっくり返った。

「ただそれだけ、言いに来たのかね」

ただの渡り鳥とも見えぬ、一癖有りそうなこの男へ、、次郎長が聞くと斧八は改まって

「もう一つ、ご注進ガ御座います。猿屋勘助は、甲州代官森田岡太郎様の下役へ、

手を回し、次郎長一家が乗り込んできたら直ぐに、お役向きから手配をして貰うと、言うふうに手筈を決めてあります。私も博奕打ち、こう申してはなんだが、

言わば表街道を歩かれねえ、人間の屑、その屑同士の喧嘩に、お役人の手を借りるとは、卑怯だと思いますんで、勘助親分に意見を致しましたが、聞き入れチャアくれません。それでは助っ人をする気にはなれませんので、挨拶をして

勘助の家を出て参りました。森の八五郎さんは勘助の処の、納屋に抛り込まれております。これだけをご注進にまいりました。八五郎さんを捕まえたのは、あっしで御座います。許せねえと、仰るのでしたら、ご存分にねがいます」。

そういって膝に手を付き、さっぱりと観念した態度だった。桶屋の鬼吉などは、毒気を抜かれてしまった。

「人間の屑同士の喧嘩とは、よう言うたぜも。だがええ度胸の男だやあ」

つくづく感心したように言った。次郎長は、にこりとわらって、

「斧八さんとやら、おめえ、親分とたのむひとは、」

 

「お恥ずかしい事乍ら、あっしは之でも形の原ヘ帰れば子分の十人程居る男でございます。」

「ほう、その親分のお目えが、ひとり旅かねえ」

「子分がつまらねえ喧嘩をして、相手に怪我をさせましたので、其れを引っかぶって旅へでました」

「普通の親分、子分とは、あべこべな訳だな」

「身の上話をしていては、切りが御座いません。さあ、お仕置きを願いします」

「まあ、いいや。おめえさんをどうした所で、仕方ガねえ、この侭引取りなさるがいい」

「左様で御座いますか」斧八は、きちんと頭をさげて、

「お情け有難う存じます。では、これでお暇を頂きます。今後一切、猿屋勘助たちには手を貸しませんが親分も、黒駒の勝蔵にだけは御気を付けなすって下さいまし。表面には出ませんが、後で万事の采配を振っているのは、勝蔵です」

それだけ言って、斧八は、子分たちにも挨拶をして部屋から出て行った。

「さっさっさっ、さあさあ」と石松は、長脇差の柄を叩き、片膝をあげた。

「こうなったら、もう殴り込みの一手よりおまへんで」

法印大五郎も勇み立った。津向の文吉の交渉も不調に終わる。祐典一家始め甲府方は、準備万端し待ち構える。              用意周到な次郎長のこと、飛んで火に入る虫のような、無謀な事はしない。逃げ去る用に見せて相手が油断して

酒盛りをしてグッスリ寝込んだ真夜中に喧嘩装束で殴り込みを掛け、勘助に大

怪我を負わせその他大勢を殺傷してその場を去った。八五郎も助け出される。

そして一時、遠州中泉の友蔵に厄介になる。大政も少しの子分を連れ合流する。

暫くして、友蔵に礼をいって辞す、西ヘ向かって旅をする。懐具合は、入る金も

大分あるが、出る金も多く何時も空からん。お蝶の体調が悪くなった。

瀬戸に入り岡市の家に落ち着く。お蝶の病も大分酷くなる。金策に四苦八苦する。

するとそこに、ひよっこりと、旅姿の形の原の斧八が姿を見せた。

「あらましの様子は伺いましてござんす」時は安政五年「1858」頃

と、斧八は、きちんと挨拶をして、

「命を助けて頂いたお礼に、少しでもお役に立ちとうござんす。二日程経ちましたら、また、お伺いいたします」

そう言って斧八はすぐ岡市の家を出た。その侭真っ直ぐに瀬戸から三河の国へ入り宝飯郡形ノ原にある自分の家に向かった。

形ノ原村は海岸にあり、半農半漁の村で穏やかな土地柄で景色も良い。斧八の家は天満社と海岸に挟まれた鄙びた所にあった。斧八の死んだ父親は、一町歩程の畑を持ち、自分の持ち船も一艘あるという男だった。斧八が博奕に凝って家を潰してしまい、今は子分十人ほどを持って、兎も角故郷へ帰れば斧八親分と呼ばれて暮らせる男だった。また形の原名家市川姓を名乗っていた。

「お帰り」三ケ月振りに帰って来た斧八を、女房のおきたが、酷く無愛想に迎えて、それでも庭で据え風呂を沸かして呉れた。斧八は太っ腹で金放れ野いい男だが、おきたは、正反対の酷いけちんぼうで、亭主が賭場で稼いだ金を、せっせと自分の臍繰りにしてしまうと言う博徒の女房らしくない処がある。

「なあ、おきた、おめえ、金を持ってるだろう。俺に融通しては呉れねえか」

風呂桶の中で斧八がそういうと、おきたが、むっとした様子で、

「お金なんかありゃあしませんよ、 お前さんの留守中、家でごろごろしている子分達を食わせるだけで、どんなにあたしが、苦労しているとお思いだね」

酷くつっけんどんに答えた。おきたは、所の網元の娘で、今年二十三、柄の大きな肉付きの豊かな女だが、金の事になると亭主も親も無くなってしまう。

「実は、清水の次郎長と言う人の内儀さんが瀬戸で患っている。そこへ金を持って行ってやりてえのだ」

と斧八は、甲府での一件を話したが、おきたは、そっぽを向いて、

「人を助けるどころの騒ぎじゃないよ。此処の家だって借金だらけ、おまけに、もうじき年の暮れが来るんだよ」

「身の皮はいでも人を助けるのが侠客の道だ」

「はぎたくても、身の皮もない始末だよ」

「そう、居はねえ出、おめえのへそくりを出せ」

「へそくりが有る位なら、苦労しやしませんよ」

「ださねえつもりだな、よしっ」ざぶりと、風呂から出ると、ろくに体も拭かず、斧八は、素っ裸のまま家の中へ飛び込んだ。

「何をするんだい」。慌てておきたも、駆け込むと、いきなり仏壇を背に立った。

「見当を付けて置いたとうり、やはり仏壇の中か、どきゃがれ」

斧八は、おきたを突きのけ仏壇の中を探ると、位牌の後に巾着が隠してあった。

「それを取って行く気かい」武者振り付くおきたを、斧八は、蹴り倒して、

「俺の稼いだ金だ。てめえの物じゃあねえ」

巾着の中を調べて見ると、小判や小粒で、合わせて三両程の金がはいっている。

「これだけありゃあ義理が果たせる」

と、斧八は、巾着を取り返しにかかる、おきたを突きのけ着物を着て、また旅

支度をすると、其の侭土間へ降りて草鞋をはいた。五人ほどいた子分達も、うろうろするだけで手出しも出来ずに居たが、おきたは、もう半狂乱のようになって「畜生っ、泥棒っ」亭主へあらん限りの悪態を吐いたが斧八は、見向きもせずに家を飛び出した。

瀬戸まで二十里ほどの道を、斧八は一散に走り続けたが、その頃岡市の家に臥ているお蝶の容態は、次郎長たちの目にも回復が覚束無いと思われるほど、悪い方へ運んでいた。皆困り果てていた、あくる日、形の原の斧八が、息を切らし乍ら岡市の家にやってきた。

「親分。此処に三両ほどあります。博奕でこさえた金だから、安心して使っておくんなさい」女房のへそくりを、ふんだくってきた、ともいえず、斧八がそういって金包みを差しだすと、次郎長は、

「有難う。辞退しねえで貰うぜ」押し頂いて、その金を受け取った。

お蝶は、薬石効無く十ニ月巾下の長兵衛の家で息を引き取った。

葬儀は、小川町の蓮勝寺出行はれた参列者は、丹波屋伝兵衛・小幡の周太郎・黒田屋勇蔵・尾張瀬戸の岡市・一の宮の久左衛門・近江の見受山鎌太郎・三河から次郎長の剣道の師小川の武市・寺津の治助と間の助の兄弟・平井の雲風亀吉・弟の御油の常吉など仲の善悪は別としてさんれつする。

その後も巾下の長兵衛に厄介担っている。其の中でなんともつかず草鞋をぬいでいるのが形ノ原の斧八に小松の七五郎だった・。斧八は、お蝶の葬式の始めから終わりまで、次郎長一家と同じ様にこまめに働いたし、七五郎も葬式の後始末の時は、石松に手伝って、くるくる走り回っていた。

斧八は精悍な顔におもい詰めた色を浮かべて座り直した。

「親分、折り入ってお願いが御座います」

「曲がりなりにも、自分は子分を持っている人間だが、これで親分などと言われるのは恥ずかしい。次郎長親分の盃を貰って子分になり、修業のやり直しをしたい、」と斧八は言うのだった。  次郎長は笑って、

「そいつは行けねえ斧八さん。見た所おめえさんは、親分の器を備えているお人だから、俺の子分になっては、子分の中からはみ出てしまう。いはば、俺の一家に大政は二人はいらねえ、というわけだ」

といったが、斧八も、言い出した以上強引に食い下がってくるので、

「では仕方ガねえ。兄弟分の盃をせざあ。何かの時には互いに力になり合おう」

次郎長は、斧八と盃を交わし自分は、斧八の兄分になった。

        次郎長・斧八平井の亀吉を襲う

豊川の下流、下地の下地常親分の所から川一つ隔てた西北一里の所に平井と言った部落がある、「佐脇」かな近くにその昔持統上皇が三河御行の折たたずまれたと言う引馬野の湊があり、この辺りの海岸は相当古くから栄えていた。殆どが半農半漁で豊かであった。黒駒の勝蔵には亀吉と言う名前の人が二人居た。

平井の方を雲風、浜松は国領屋と呼んでいた。雲風亀吉は文政十ニ年この地で生まれ力士として渥美郡福江在小中山に住する。小川注連蔵親分の子分となり、平井村に移る本名大林亀吉と言う。平穏な村落の平井に事件が起きた、時は文久三年「1863」旧暦の六月四日の昼頃で、京都の寺田屋騒動の起きる一年前の出来事である。戦闘のすさまじさから言って次郎長の出入りの中で最大と言われているのが、この平井の雲風亀吉に対する襲撃事件である。

宿敵黒駒の勝蔵が、自分の弟分、平井の亀吉一家に身を寄せている事を察知した次郎長は、雲風と対立関係にあった形の原斧八と大政など戦闘集団三十ニ人を以ってこれを急襲、何んと其の武器は、猟銃と九尺の長槍である、その時形の原から船で平井湊に敵前上陸している。勝蔵と亀吉は逃がしたが主だった子分は皆殺しになった事件で、これがのちの形の原夜襲の起因とされている。

殴り込みの期限の六月三日の日暮れ迄、御油の玉一が勝蔵から仲介の返事を持って来る事になっていた。

次郎長は大政らに「玉一は此処「寺津」から十数里の間を駈けずり廻るのであるから、三日の日暮れ迄に話はつくかどうか、それまでに殴り込みの支度は怠り無く整えて置け」と言った。

この時、大政らの持って来た槍は九尺足らずであった、そこで一丈ニ尺の槍と突き合わせ手見ると、戦うには一丈ニ尺の長槍の方が有利である事が判った、そこで、西尾で一丈ニ尺の棒二十数本を買わせ、槍の穂先を付け替え、約束の三日の日暮れ迄待つ事にした。

次郎長は、形の原斧八吉良の仁吉・土呂熊・鳥羽熊・桃太郎・竜吉・丹蔵・兵吉・小市など新手十人の助っ人を得て、総勢三十四人で平井「小坂井」の雲風の亀吉の家へ、殴り込みを掛ける準備をした。

三十四人の総勢は明けて六月四日朝、形の原から出て来る斧八と寺津で次郎長や吉良の若い者と合流して寺津の湊を後にし

平井の湊に昼近くに着き、直ぐ喧嘩支度をして、湊に近い亀吉の二階建ての家を取り囲み喚声を揚げて家へ雪崩れ込んだ。

予定通り次郎長は二手に分けて、正面からは次郎長が切り込む、裏手の組を大政・斧八とに分けた。「それっ掛かれ」次郎長は長脇差を抜き亀吉の家障子を蹴っ飛ばして、真っ先に土間へ飛び込むや否や声高に叫んだ。

「清水の次郎長が、黒駒勝蔵の首を貰いに来た」

土間に続く部屋にいた雲風一家の者四人が刀を抜くのも忘れ

「次郎長の殴り込みだ」わあーっと叫んで奥へ逃げ込んでいった。

どたばたと物音や叫び声のする二階へ、次郎長は真っ先に

「俺が先陣を切る、誰でもいい、俺に付いて来い」と叫び長脇差を振りかざす。

次郎長の後に、鬼吉・小政・綱五郎・法印と言う順に同じ様に段梯子を鳴らして駆け上がってきた。二階の上がり口まで飛び出して来た黒駒一家の次郎太郎と言う暴れ者を、駆け上がりさま次郎長が、下から掬い上げるように斬った。

「わっ」真直に段梯子を転げ落ちて来るのを「邪魔しいな」頭から血を浴びながら、法印大五郎が、下へ突き落とした。            「畜生」

広い二階座敷の真中に、黒駒身内の大岩・と小岩が、浴衣の裾をからげ、片肌脱ぎになって、大岩は体が大きく、小岩は小さいがどちらも負けず劣らず度胸も腕も立つ男だった。       「野郎」      「さあ来い」双方が喚き会っていると。

裏梯子の方から大政・形の原斧八・吉良の仁吉・七栗の初五郎などが、刀を振り回し乍ら駆け上がってきた。

「次郎長だな、俺は大岩だっ」

刀を振りかぶり、次郎長の方へ走りかかって来る大岩の前へ、ひよいと次郎長方の小政が飛び出して、小政が妙な薄笑いをしている。

「どけっ小さいの」怒鳴り付ける大岩へ、小政が抜き打ちに長い刀を払った。

大岩は腰の(つが)いから斬り払われ、うめき声もたてずに、どさっと倒れた。

大岩が討たれたのを見ると、小岩は死に物狂いに暴れたが、これは吉良の仁吉に斬られた。それ以外の黒駒一家の子分、次郎吉や松五郎・豊五郎を相手に、形の原斧八の長脇差が唸りを立てて切倒した。こうした同僚が斬られるのを見ていた黒駒方の、大前田の英五郎の子分が部屋の隅で手を合わせて震えていた、其れを見て、次郎長は可哀相になって金を与えて放してやった。

この日、勝蔵は階下の奥の間で亀吉と賭け碁を囲んでいた。事が起こると卑怯にも子分と刀をすてて、手拭いで顔を包んで裏口から隣の百姓の家に伝わり、田圃の中を逃げ出していった。

これを見て追う者があったが次郎長は、勝蔵と亀吉であることは承知であった、其の様子が同じ侠客人として見るに堪えなかった、尻尾を巻いていく犬畜生に何の未練があろう。

「よせよせ、あれはお百姓だ、素人には手をだすな」

後で子分の桶屋の鬼吉に苦笑しながら話した。

「俺はまさか、あんな格好で両親分が逃げるとは思わなかった。」

 

平井村の百姓たちは、常日頃黒駒の勝蔵を心良く思って居なかった。次郎長が来て襲撃したことを知ると多いに喜び、おむすび、や酒樽を持ち込んでその労を労った。

       次郎長は獄門台を作らせ、六人の首を曝した。

       殴り込みから引き揚げるまで、凡そニ時間であった。

       以外に簡単であっけ無い物であった。奇襲とはこんなものだ。

それから次郎長一家は、吉良の仁吉・形の原斧八・七栗の初五郎たちと別れ、役人の目を掠めて見附へ引き返した。

次郎長と別れた形の原の斧八たちは、寺津の湊に戻って来たのが午後三時頃です。沿道には人がびっしりと並んで出迎え、耕馬を提供して負傷者を運ぶことを申し出る者もあったが、一人の死傷者も無かった。猟銃も長槍も家の中での斬り合いだけで済んでしまったので、其の侭使わず引きあげてきてしまった。

白昼の出来事で、天気を心配していたが夕方から本降りになり、昼間の出来事も一緒に流れたのか、雨の音以外に形ノ原の街は静まり還っていた。

斧八の女房おきたは、終始無言でこの日も例の無愛想で無言の侭だった。

        幕末風雲急な世の中平井襲撃事件から三年が過ぎ様としています。次郎長と斧八の関係は以前に増して深い物となっていた。

慶応ニ年「1866」四月には伊勢の荒神山事件「吉良の仁吉・法印大五郎の死」

        雲風一家の形の原夜襲事件

慶応ニ年十一月の頃次郎長は、弟分の形の原斧八が先の様々の件を恨んで黒駒一家が狙っていると、知って応援に、豚松・鳥羽熊他十人程の身内を形の原へ急行させ、殴り込みに備えた。然し幾ら待っても敵は来ない待ち疲れて一人去り二人去り、とうとう残ったのは豚松・鳥羽熊・浪人など数人となった。

十ニ月五日未明四時頃闇夜に紛れて雲風一家十数人が甲冑を身に着け平井湊から船で天神川の入り口に上陸襲って来た。多勢に無勢それに夜と来たから敗色濃厚であった。そこでおきたは、慌てず敵と応対し斧八を抜け道から逃がした。

その抜け道は羽栗の池の竹藪に通じていた、その藪の中に斧八は隠れた。そして助かった。雲風の連中は血刀を持って街中一軒一軒虱潰しに押し入れの中迄隈なく探し歩いていた。街の人達は恐怖のどん底におとされた。昼近くなる次郎長一家の応援が来ると危ないから去っていった。街の人には手をださず。

その時の豚松の働きはすさまじく敵三人を倒したが自分も左腕を肱から斬り落とされ、右目に敵の刀を受けた。敵が去った後介抱すると、豚松の右の目玉は

、だらんと頬までぶら下がっていた。呼ばれた医者がぶるぶる震えているのを、

かえって豚松は励まして、「俺は生まれてこの方、お袋に打たれた時の他は、痛いと言った事のねえ男だ。しっかり治療をしてくれ」笑いながら、大の字に寝転がった。右の目を取られ、左腕の傷に治療を受ける間、豚松はうめき声もたてず、かえって大きな声でヨシコの節を歌っていた。

「傷の後が大切でござるゆえ、酒は当分なりませぬ」

そう云い置いて医者は帰ったがニ・三日は酒を辛抱していた豚松は、我慢しきれず、斧八や鳥羽熊のとめるのも聞かず酒を飲んだ。それも一升酒である。傷口が悪化して、破傷風となり、慶応三年の正月、斧八の家で死んでしまった。

        斧八は、生まれは、蒲郡市民会館の市川姓の家で何故形の原ヘきたのか?

        没年明治二十三年正月二十六日です。

        子孫は一般市民であります

        次郎長は明治二十六年六月十ニ日没74歳病死

        黒駒の勝蔵は池田数馬と名乗り官軍の列に加わって、無事、清水を通ったが、四年後盗賊と云う無実の罪をきて、甲府の牢内で斬首された。

        斧八は墓は淀尻の墓地に有り石積みの立派な墓です。

       隣に市川与四郎夫妻の墓在り三代目と銘ある

形原の林光寺には石碑在り

形原一家

              尾崎士郎書

裏初代市川斧八       釈顕曜        明治23年1月26日

ニ代市川与四郎       釈専明        明治31年3月9日

三代市川弥市         釈静観        大正10年6月6日

四代中瀬徳市         釈徳本        昭和21年12月29日此処より代かし

五代清水橋一郎       法橋院穏空最岳明勝清居士昭和36年1月4日同上

                     昭和34年6月初夏

                                   小林金次      建之

文久三年(1863)六月の平井の殴り込みの時、東海道の小大名や代官所の役人では無謀者を取り締まる力は無く弱い者だけを取り締まった。

●又、博徒の妻は強かった私が直に聞いた話中瀬徳市の妻なる人多分八十は過ぎていたと思います。昭和二十五年頃と思う、その妻なる人の良人(徳市)は代貸(形原一家のこの頃斧八の直系は堅気になっていた)で親分と同格であった。その妻ナル人が言うに殴り込みまででは無いが脅し揺すりのような事が三・四回合ったそう云う時内の人は真っ先に押し入れに入って後は頼むと、気の小さい人でしたと・。斧八も同様と推察される。

1863の時清水の次郎長は44歳

              黒駒の勝蔵は32歳

              平井の亀吉は35歳

              形の原の斧八は33歳

油の乗り盛りの時代であった。

       参考文献      村上元三      次郎長三国志

                     村瀬亘宏      社寺を訪ねて