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’36 春華の夏

‘36 春華の夏
 焼けたアスファルトに日焼けした足をおろす。そして、ゆっくり息を吐き出す。頭の片隅にミストタイプの日焼け止めが浮かんだが、すぐに追い出した。なるほどネ、って感じ。
今のところ筋肉の乳酸もストライキを起こしていない。半日もアシストなしの自転車をこげばもっと疲れるかと思っていたが、そうでもない。
木陰のある道路脇に自転車をころがし、その横に座りこむ。視線の先には道路を挟んで防波堤.一段下がって砂浜と海。その先にわずかに弧を描く水平線。防波堤がなければもっと素敵なのにと思ったりする。その上に視界の半分以上をしめる空。草の強烈なにおいが夏を主張している。
もう一度ゆっくり息をはきだす。そして大きくすいこんだ。
リックから水筒とタオル、そしてスマホを取り出す。太平洋を渡ってきた風が我が物顔で誰もいない砂浜と、少しだけ黒くなった春華の頬を通り過ぎていく。
「なるほどネ」
 今度は口に出してつぶやいた。たしかに人の姿はない。やっぱり、この暑いのに、さらにいちばん暑い場所である海辺にくる物好きはいないらしい。車も少なく、スファルトに陽炎がたっているのをぼんやりとながめながら、ママが若いころは海水浴なんてレジャーがあったらしいのにネ、と考えた。東北大震災の津波被害から全国的に防波堤が増え、その頃から海水浴をする人がいなくなった、らしい。
さらに地球の温暖化は確実に進んでいる。気温40度を計測するような日中に無用な外出するような物好きは少ない、と。理由だけを並べてみれば単純な構図ではある。
来年から夏休みが廃止される。ということは、これからの一週間が日本史上最後の夏休みということになるわけで。もっともクラスメートなどは「50日の休みを自由な時にとれる」と歓迎しているが。
何人かに「記念に冒険しようヨ」と提案したが、「なんでこの暑いのに、そんなかったるいことするの?」とバカにされた。
悟が自分を好きなことには気がついている。その悟でさえ「プールのほうがいいジャン」と相手にされなかった。
こうなるとますます意地になるのが春華。変更したのは行き先だけ。「テニスで鍛えた体力を見せてやる」もっとも、たかが高校の部活であり、体力もたかが知れてると、春華自身も思っていたのだが。どうやら最大の武器は部活より若さだった、らしい。
自転車はパワーアシストなしのシェアーバイク。目標は学校で一番黒くタフな女の子になって始業式に出ること。だからスタイルはキャプに短パン、Tシャツと勇ましい。
 スマホで自分の位置と予約してあるペンションをチェックしていると目の前に白い車が止まった。Toyotaのmirai。
「乗せてってやろうか?」
 その若者は運転席から降り、わざわざ車を一周して春華の前まで来た。後ろに回り込んだときにマフラーが吐き出す水がかかったのだろう。ズボンのすそが濡れている。「今どきパワーアシストなしのスポーツバイクなんて」長身を折り曲げるようにして自転車をジロジロ見ている。そして「博物館から借りてきたのかよ」と言った。いやなやつだ。
「・・・って、乗せてもらったら自転車はどうするんですか!」
 春華がぶっきらぼうに言ったとき、助手席側のウインドウが下がった。突然スポットライトの中に出てきたアイドルって感じ.どちらかといえば春華はワイルド系のダンスミュージックが好きなのだが、アイドル系を嫌っているとクラスで浮いてしまう。
「ごめんよ。ここまで自動運転にセットしたままで来たから、こいつ退屈しててね」
 少し年上と思われるその人は春華に向かって頭を下げた。こちらはネクタイをしている。年上といっても、おそらく20代中盤。せいぜい春華より10歳年上程度。降りてきた若者は春華より少しの、まだ10代の後半に見える。半日で少しだけ日焼けした今の春華より、さらに黒い顔をしている。
「だって先輩、こんなカンカン照りの中をバイクで走るなんて女の子のすることじゃないですよ」
 若者は、いかにも不満げな顔で春華を見た。「なんならこの子が車に乗って僕がバイクで行くって手もありますよ」
「バカなことを言ってないで行くぞ」
 助手席の人は若者を手招きした。そして「でも本当に気をつけてよ。熱中症にならないようにね」と笑った。
 春華が、「ハイ!ありがとうございます」と少し照れながら答えたとき、若者は自転車を横目で見ながら運転席に回り込んでいった。助手席の人が「ジャーね!」と言ったとき運転席のドアが閉まる音がした。そしてmiraiはわずかなモーター音を残して動きだした。
「何、あれ」
 春華はあきれた様子でテールランプを目で追った。ネクタイをした人に日焼けした顔を見られた恥ずかしさを、降りてきた若者をけなすことで相殺しようとしている。排気管から流れ出した水がアスファルトに点々を作ったがすぐに蒸発して消えた。
 車が見えなくなったところでリックから弁当を取り出す。朝、作ってきたサンドイッチ。食べながらスマホを見る。出がけに「今から蒸発します。連絡には一切でられません」と、手当り次第メールを入れておいたからメールも数件しか入っていない。しかし、それも無視。当然パパからのメールも無視。ママは春華の性格を知っているからメールなどしてこない。
 例外は祖父の広軌からのメール。“あまり無理をするなよ。困ったら車で迎えに行ってやるからナ。グラン,ジィも楽しみにしてるみたいだから”今回の冒険の目的地。グラン,ジとは祖祖父の真一。その祖父はリトル、ジィと呼んでいる。
”元気だよ。明日はよろしく“と大きなハートマークをつけて返事を返しておいた。明日の晩御飯の予想は、山盛りのフルーツと手巻き寿司、そしてソーメン。リトル、ジィの得意料理。

 優大は「今の日本で俺たちほど忙しい職業はない」と口癖のように言う。春華やママは、「パパって大げさだよね」と相手にしないが、それでも一週間で五日も仕事をしているのだから忙しいのは確か、らしい。
 公務員。それも教育改革とやらに関わっている。夏休み制度の廃止は来年から実行に移される。小学校6年から大学院2年までの学校制度の見直し。次が義務教育制度の改革。そしてさらなる担当生徒人数の縮小。5人の生徒に対して教師一人くらいになる、らしい。
 真一の年代は“団塊の世代”と呼ばれた。戦後どころか日本史上もっとも人数の多い世代。現在90歳前後くなるはずだが、まだ生存している者も少なくない。日本人の平均年齢が90歳を越したといわれてからずいぶんたつ。
それでも日本の人口もずいぶん減った。最近「ついに一億人を切った」とニースになったばかりだ。
子供の数もひと世代周るたびに半分になっている。どうやら生徒の数が減っているから教育改革をせざるを得ない、らしい。カリキュラムの面ではコンピュータまかせになったが、教室では教師でなければならない。逆に言えばサービス業同様、人でなければできない数少ない職場の一つ。労働力の減少から始まった。機械化の波。単純作業は機械任せで、人間の仕事の量は確実に少なくなった。

 もちろん車のナンバーなど見ていない。かりに見ていたとしても覚えているはずがない。しかし、その車は同じ車に見えた。白いmirai。
 絞れば水が出るほどのTシャツでたどり着いた駐車場には見覚えがある車が止まっていた。勘弁してよ、って感じ。
 Tシャツの胸の部分をつまんで中に空気を送り込む。ブラジャーが見えてない? と心配になる。少しだけシャツの中まで拭いたタオルを首に巻きつけた。
このペンションの奥さんはママの同級生で今でも仲のいい友達。だから小さいころから何度も来ている。
鈴がついている少し大きめの木製ドアを開ける。ロビーにマスターの後ろ姿が見えた。
「こんにちは」
 どうやら誰かと話しているらしい。春華は遠慮がちに声をかけた。「少し早く着いちゃいました」小さなフロントカウンターの奥にある時計を見る。まだ4時を少し回ったばかり。
 マスターは振り返って「ヤァー 春ちゃん。無事についてよかった」と言いながら立ち上がった。
 一応「まだ余裕です」強がっておいた。マスターがソファーを回り込んだとき正面に、miraiの助手席にいた、あのネクタイの人の顔が見えた。
あわてて首に巻いたタオルで顔をふいた。その人は、「ヤァー、本当に新之助に自転車でこさせてもよかったみたいだね」と、立ち上がった。どうやらあの図々しい男は新之助という名前らしい。変な名前。マスターの顔が「知り合いだったの?」と、ふたりの間を往復する。
 奥から出てきたママさんが部屋まで案内してくれた。
「ホラ! うちのペンションってイチゴを楽しみに来てくれる人が多かったでしょ。今ではほとんど一年中とれるから」
ママさんは部屋のカギを開けながら言った。「でも生産者さんも後継者がいなくてやめる人が多くなったのネ ほら、イチゴ農家って大変だから。それであの人たちが相談にのってくれることになったの。一人は農業専門の経営コンサルタント。若い子の方は農大の学生みたい。やめなくて済むように、もっと楽に生産できる方法はないかってネ」
 見慣れた部屋。ここに泊まるときはいつも同じ部屋を用意してくれる。もっとも一人で泊まるのははじめてだが。
「シャワーを浴びたら下りてきて。晩御飯まで時間があるからイチゴ狩りにいってくるといいよ。連絡しておくから。今年で最後になるかもしれないからネ」
「ハイ」
 春華はおおきくうなずいた。もちろんイチゴはだいすきだ。しかし今は、とにかくシャワーを浴びたかった。

 柿の実は、親指の先くらいの大きさになっている。それを横目で見ながら歩道をゆっくりと降りていく。一帯が柿畑。近くにはブドウ畑とミカン畑もある。坂の真ん中当たりに大きなビニールの温室がある。イチゴの温室。この時期には側面はすべて開けられ、天井全体を寒冷紗を呼ばれる日よけが覆っている。1メートルほどもある換気扇がうなり音を立てている。
 ビニール製の扉の先に三つの人影が映っていた。
「コンニチ、ワ」
 春華は遠慮がちに扉を開けた。そこにはリトル、ジィと同じくらいの年の夫婦らしいふたりと、あの若者がいた。
「アレェ!」
 若者の声がビニールハウスに響いた。たしか新之助とかいう時代劇に出てくるような名前。「目的地は同じだったのか.ヤッパ、俺がバイクでくればよかったジャン」ネクタイの若者と同じことを言った。笑うと極端に目じりが下がる。
 春華は「あの自転車はウチの町で運営してるカ―・シェアーの自転車部門で借りてきた大切な自転車なの。なんで知らない人に貸さなきゃいけないんですか」笑いもせずに言った。実際には大学生だから年上。しかし、それを感じさせない。どちらかと言えば年下のヤンチャ坊主という感じ。
「確かに」
 笑いながら隣の老夫婦を見た。「来る途中で出会ったんですkrどね。この子、この暑い中をバイクで走ってたんですよ。すごいでしょ。僕も同じタイプのスポーツバイクを持ってるんだけどさすがに夏休みに乗る気にはならないな」
春華は「確か、あのとき、博物館から借りてきたのか、なんて言いませんでしたっけ?」トゲのある目を向けた。
若者は「それは、オレ以外にあのタイプのバイクに乗ってるやつを見たことないって意味だよ」屈託のない顔で笑った。たしかに、いまどきパワーアシストなしの自転車そのものが珍しい。言い返す言葉を探している春華を無視して「イチゴをいただきにきたんでしょ? 藤江さん、いいですかね?」老夫婦を見た。しかしすぐに「俺、新之助。君は?」と言って振り返った。
 しかし藤江さんの奥さんが先に口を開いた、「ペンションのママさんから電話をもらってるよ。たしか前にも来たことあるよね」
「ハイ、うちのママが同級生です。前に来たときエバーミルクなしでもとてもおいしかったから、持たないで来ました」
 これにはご主人の方が反応した。「うちのイチゴはうまいから」短く言った。
 藤江農園に限らず。現代の農業はほとんど水耕栽培になっている。作業しやすい高さのベットに水路が設置されていて、そこに苗か植えつけられている。「そこの列がいろんでるよ」ひとつ横の列のべットを指さした。「たくさん食べナ」
 春華は「ハイ」と答えて隣の列に移動した。
 温室とは便利なもので、この時期では外よりもずいぶん涼しい。真夏のサイクリングで消耗した水分の補充に、イチゴは次々に春華の口へと吸いこまれていく。それでも5つほど食べたところで隣の列を見ると三人は、もう春華を見ていなかった。
「藤江さん、本当にイチゴが好きなんですね」 新之助の声が響いてきた。「やっぱり、やめちゃ、さみしいですよ。もっと楽に収穫できる品種を探しましょうよ。先輩も農場コンサルタントって立場だから、企業に譲渡する相談にも乗ってるけど、それで明日の相談会を開催するわけなんだけど。それじゃさみしいから僕を
連れて来てるんですから」
 藤江さんは少し悲しそうな顔をした。「わかってるけど投資資金の額がそのまま収穫量になって出る時代だからね。資金力がある企業には勝てないサ」
 奥さんがなにげなく腰を揉む仕草が気になる。リトルジイと同じくらいの年。しかしリトルジイのほうが元気に見える。職業病? よくわからない。
 2014年に企業の農業参入が認可された。きのこ類から始まった企業による施設生産の波はレタス、キュウリ、トマトなどのほとんどの野菜が工場生産に切り替えられた。
 農業従事者にとって不利なのは工場や産廃設備からは排熱がでる設備は少なくない。排熱だから当然コストは低い。
 そして日本での生産に適さない野菜や果物は輸入すればいい。
2017年にはTPP、環太平洋経済連携協定が締結されている。つまりそれは、太平洋を取り巻く国々で、それぞれの商品をもっとも適した場所で生産する制度。国土が狭く山岳地が多い日本は基本的に農業に適してはいない。
その点では、果実が柔らかく日持ちしない「イチゴは最後の砦」と言われた。「もっとも工場生産に適さず、時間がかかる輸送にも適さない果物」
 新之助は口だけでなく手もよく動く。藤江さんが時々うなずく。
春華は、イチゴを口に運びながら目は三人を追っている。
「・・・ずいぶん大人だよね」実際には三歳か四歳しか離れてにないのだが。そしてヤンチャ坊主に見えた最初の印象とのギャプも大きい。

夕食は三人が同じテーブルに着いた。ほかにも空いているテーブルはあるのだが、「出会いを楽しまなくちゃ旅行じゃないでしょ」とママさんがセットした。
春華の口数が少ないのは、必ずしも疲れのせいばかりではない。
「農林水産省の言い分は理解できますよ」
 新之助は怒っていた。「でも第三セクターって言ってもつまり準国営ですよね。そんな中でいいものができる訳がない。農業は衰退するばかりですよ。違います? 先輩」
 先輩と呼ばれた藤波恭太は「最終的にはコストだからな。二十年前、政府はデフレの克服はできないと断を下したんだ。当然だよ、当時も国民の三分の一が年金生活者で、始末が悪いことに年金機構が破綻してたから年金は挙げられない。物価が上がれば国民の二割は生活できない状況だったんだよ」
「それで年金を一律十三万に統一したんですよね。生活できる最低ラインってことで。そこで必要になったのが生活用品の安値での安定。とくに食料品は安くなければならなかった。そこでは安定生産と人件費カットが絶対条件だった」
 新之助はため息をついた。「・・・わかってるんですよ」
 つまり藤江さんも廃業しても生活は保障されているわけで、藤江さんに限らずこのあたりの農業従事者が廃業するかどうかの分岐点にいるわけで。明日その説明会を開くために藤波恭太は来ているのだが。少なくとも立場上では。
 春華は口をはさむことができない。ずいぶん大人。おそらく年齢的には十歳も違わない。しかし考えははるかに大人。高校生から大学生、そして社会人。
「たいへんですね。でも大人でかっこいいです」
 春華は話の切れ目に言ってみた。高校一年生。
「ア、 ごねんよ。こっちの話ばかりに夢中になって」
 颯太は笑いながら春華に顔を向けた。
 新之助は「俺も経験があるけど、実はそれほどたいしたことないのさ。高校と大学の環境の違いサ。例えば高校は卒業させることが目的だよね。だけど大学は卒業させることが目的じゃない。それだけやせ我慢もするし、視野も広くなる。なんたって、選挙権があるくらいだからサ」と一気に言った。実は真面目人間?
「新之助さんはやせ我慢してるんですか?」
 それが、おそらく主旨と違うことはわかっている。しかしほかに言葉が見つからない。
「俺はしてないけど」
 新之助はあっさり答えた。
「どちらかといえば、新之助は楽しんでるだけだな。ホラ、今の大学って卒業したからって、それほどメリットがある訳じゃないから」
 恭太はいたずらっぽく笑いながら新之助を指差した。春華にもわる話題に切り替えてくれた? 「現代は単純作業のほとんどをロボットに占領されてるから仕事を選ぶ幅が狭いんだよ。たとえば君は、どんな職業につきたい?」
「・・・どうなるんだろ」
 春華はあいまいに答えた。そして「でも、大学の二年くらいの頃には決めてると思うな」と、続けた。新之助を意識している。
「今は分岐点だから、先のことはわからないさ。あまり深く考えないほうがいいかもな」
 言いながら恭太はコップを口に運んだ。そして、「そんなことより今はマスター自慢のディナーを楽しも」と続けた。
「そうですよね、先輩。こんなかわいい子と食事する機会なんてそんなにないから」
 何かを思いついたように春華を見た。そして「春の華にしては、少し色が黒いけど」と笑った。
 春華は「なんとでも言ってください。私は今、人生最大の冒険の最中なんですから」言いながら頬に手を当てた。少し熱をもっている。太ももはパンパンに張っている。
「明日は・・・」あとは言葉にならなかった。 
 ――明日は何時ころまでいるんですか?
 できればもう少し話をしたい。しかし言葉にはできなかった。春華らしくもない。やはり疲れているのかもしれない。
 16歳、高校生。その枠が存在するとして、その枠から外れると何もわからない。そこでは好奇心と臆病のせめぎ合いだったりする。

 神谷広軌は昼飯が終わったところで、「さて、どうするかな?」と、女房の顔を見た。少しかたずけておきたい仕事は残っている。
「どうせ落ち着いて仕事なんてできないんでしょ。お父さんを連れて来たら」
 美香がからかうように笑った。一人っ子が三代続く神谷家の家系の中で、春華は待望の女の子。お袋などは「これで神谷家の家系はとだえるんだろうね」とため息をついたこともあるが。宏軌も父親の真一も「そんな時代じゃねぇよ」と気にもしなかった。
 しかし、孫も胸のふくらみが分かるようになったころから妙に気になりだした。もちろん気にしても仕方がないことはわかっている。
「春華は、肉の方がいいんじゃないか?」
「あの子やさしいからね、あんたの作るものは何でも喜んで食べてくれるよ」
 女房はニヤニヤしながら言った。宏軌は「そうだな。それじゃスーパーに寄ってから親父をつれてくるよ」と言ってテーブルを離れた。
 仕事場として使っている玄関横の部屋で会社からのメールがないことを確かめた後マンションを出た。
 暑い。実はスーパーより親父のいる養老院のほうが近い。しかし親父をつれてスーパーへ行くと「春華が好きそうなもの」が増えすぎる。
すでに九十歳を越しているというのに元気すぎてこまる。この暑さだから、アイスを買うと・・・、少し迷ったが、それでも車をスーパーに向けた。

 春華は「そろそろグランジィやリトルジィって呼び方を変えなきゃいけないね」広軌と真一の顔を交互に見た。じつは少々恥ずかしくなってる。
 しかし、二人はほとんど同時に「変えなくていいよ」と、顔の前で手を振った。
 すでに祖母はバァチャン。祖祖父は大バァチャンにかわっているというのに、だ。
「ずいぶん黒くなったね」と冷やかす祖父に「海がとてもきれいだった」と答えた。そして「バァチャンの若いころは海水浴をしたんでしょ」と続けた。
「というより、海水浴する場所が限定されるようになったんだ」グランドジィか横から口をはさんだ。「高齢化社会になって都会に人口が集中したから」
「赤外線による皮膚がんなんて気にする人も増えたしね」
 春華なりに聞いてもらいたい話はたくさんある。「リトルジィはいつまで仕事をするの?」昨夜の颯太と新之助の話が残っている。
「春華はずいぶん大人になったな」
 リトルジィは少し驚いたように見えた。「僕の場合はまだしばらく働く必要があるかな」
 春華は小さくうなずいた。大人扱いされているようで、少しうれしい。「二十一世紀前半はアジアの時代だったんだね。そして後半はアフリカの時代。だけど日本はアジアの時代のほうが苦しい立場だった。アジアは農耕民族と狩猟民族が同居してる地域なんだね。農耕民族は自己主張が下手だから。だけどステージがアフリカに移ったことで必要とされている物を提供するだけよくなった。例えば中国は早くから地固めをしてきてるんだけど、アフリカで最も必要とされているのは水なんだね。そして日本は、その部門でどこよりも高い技術を持ってる」
 リトルジィは一気に言った。おそらく会社などで言い馴れている話題。「そして僕の会社は水のプラントのメーカーなんだ」
「そうなんだ。忙しいの?」
「春華のパパと同じくらいにね、今は職業が淘汰されてる時代だから、人余りと人不足が両極端だね。も少しすればバランスが取れると思うんだけど」
 そこで母親の顔を見た。そして、「でも僕は設計の人間でホームワークができるからありがたいよ。こうして両親の近くで暮らせるから。営業にしろ工事の人間にしろ。現地に出向く者はたいへんだよ」と言って一息ついた。
「そういえばパパは、いずれこの近くに住みたい、なんて言ってる」
「今はママのご両親の近くに住んでるんだから無理しなくていい、っていっておいて」
 言いながら美香の顔を見た。日本はまだ、少子、そこから生まれる家族の形態を確立できていない。
バーチャンは、「そうよ。私たちはうちの人が定年したらお母さんたちと同じ養老院に入ろう、って話してるんだから。同じ施設で暮らせるから気楽よね」
「その頃には私たちは生きていないと思うけどね」
 大バーチャンは屈託のない顔で笑った。グランジィは、
「第2次世界大戦の後は良いにつけ、悪いにつけ、俺たちの世代を中心に回ってきたんだよ。実は人口が多いってだけなんだが。それもここにきて終わりに近くなってきた。超高齢化社会の終焉ってわけだ。高齢化は世界中で問題になってるからな、モデルケースとして注目を集めてるくらいだよ」いかにも楽しそうに笑った。九十歳を越したいまでも自分たちを中心にという体質は変わっていない。過剰な競争社会を生きてきた後遺症。
「そうなんだ。」
 言いながら春華は食後のスイカに手を伸ばした。実は、少し背伸びをした話題を持ち出したことを後悔している。それを察したバアチャンが「春華は好きな子いるの」と振ってきた。それはそれで面倒だが、少なくとも時事話よりはいい。「タレントさんはどんな子が好き? 歌は? アイドルは?」矢継ぎ早に飛んでくる。
 オバちゃんの知恵。強引にでも話題を変える? こうなると男どもはさからえない。
「歌はアイドル系? ダンス系?」
 なぜか颯太と新之助の顔が浮かんだ。春華は「どっちかというとアイドル系かな」と答えた。
 親子に孫を含めた夫婦に高校生になる女の子。約一世紀にわたるスパン。大バアチャンが「わたしはキムタクだね」と笑った。
そして「こんな楽しい夜はひさしぶりだよ」と言った。

 春華は、昨夜遅くに施設に帰ったグランジィたちの部屋によってから帰ることにした。もちろん大バアチャンが「帰るときによってよ」と言ったからだが、帰り際にはこずかいをもらった。
 そこは特別豪華とはいえないが落ち着いた部屋。寝室には畳が敷いてあった。「この部屋だけのオリジナル」住居に畳が敷いてあるのを見るのは久しぶりで、どこか新鮮に感じられた。

 ペダルを漕ぐ足はずいぶん速くなっていた。実は昨日がいちばん辛かった。足も重かった。それにくらべると今日はずいぶんなれてきている。
 しかしペダルをこぐ足が速いのは、そのせいではない。
ペンションに着いたときは午後の二時を少しまわったばかり。しかし駐車場には白いmiraiは止まっていなかった。
 二日前と同じようにシャツの中に風を送り込み、拭いたタオルを首に巻きつけて、ベルの付いた木のドアを押した。
「・・・こんにちわ」
 首だけを先の滑り込ませる。マスターはカウンターの奥にいた。「ヤァ! ハルちゃん早かったね」
「ヤッパ、慣れてる分だけ帰りのほうが早いみたいです」 
 言いながら体をホールに入れた。涼しい。
「そっか」
 マスターはニヤニヤしたように見えた。「でも汗びっしょりだよ。早くシャワーをあびといで。藤江さんに電話しといてあげるから」
 キーを渡される。どうやらママさんは出かけているらしい。
シャワーをあびてホールにもどると、マスターは「メッセージがあるよ」といってメモをカウンターに置いた、
それは新之助からだった。

――お疲れさん。予定より早くすんだから帰るけど、おとといは楽しかった。お互いに来年は夏休みがなくなってるだろうから、七夕に合流しないか。俺もバイクで来るから
 絶対だぜ。
                    新之助
  
たったそれだけ。とりあえずアドレスも何も書いてない。ずいぶんアナログ。メモ用紙から目を離してマスターを見た。再びニヤニヤした顔があった。
「どうするかは、もちろんハルちゃんの自由だけど、あの子いい子だよ」
 春華は「そうですよね」とだけ言って尻ポケットに、そのメモ用紙を押し込んだ。


 2036年、夏。
 この最後の夏休みでクラスメートの何人かは大人の体験をしたと思う。残念ながら春華はそのチャンスに恵まれなかったが、そのかわりずいぶん大人っぽい経験をしたように思う。
 代償はクラスの誰よりも黒い顔。だけど、これはこれで悪くない。