知立市の手筒

秋葉祭 秋葉神社(知立神社内)  9月23日に近い日曜日

東海道五十三次の宿場町「池鯉鮒」は、無量寿寺のかきつばたが有名ですが手筒花火も行われています。おそらく東海道の宿場町で手筒花火の奉納される西限ではないでしょうか。花火のスタイルはやはり西三河なのでヨーカン棒中心で煙火つづらの練り込みを行うところは岡崎に近い様です。知立市役所秘書課広報係の方に詳しく説明していただきましたので、下記をご覧下さい。

秋葉祭りの起源として最初に記録があるのは、宝暦6年(1758年)に遡ります。(中町祭礼帳)ただし、当時は春の知立神社大祭に対応した秋祭りとしての位置付けがされており、神楽や人形浄瑠璃、獅子舞狂言などの奉納が中心でした。

手筒花火の奉納は記録によると明治40年が最初で、以降「花火大会」が秋葉祭りの主流となりました。大正以降、春の大祭とともに秋葉神社の祭礼も年々盛大となり、手筒花火というよりもむしろ三尺玉など大仕掛けの打ち上げ花火が中心となりました。しかし、現在ではまた手筒花火が主流となっています。

秋葉神社の祭礼には旧5町(本町、山町、中新町、西町、宝町)と山屋敷町の6町が行なっているもので、毎年交代で当番町を決め運営しています。

花火を奉納するのは各町の若衆連で、祭りの当日には花火箱を持って町内を練り歩きます。「長持ち歌」に合わせて右、左と飛び歩くもので、箱の中に花火玉に見立てて入れられた石が音を立てておどり、丸太が地面に着くほどしなる様は滑稽です。その後夕刻に入ると、6町の若い衆が順番に知立神社鳥居前の広場で手筒花火や打ち上げ花火を奉納します。

なお、知立市内には他に手筒花火を行なっている例はありません。

(参考)知立の民俗〜「戦前の子どもの遊び」(市史より)
「花火」 線香花火、乱球、手筒・・・大正年間、子どもたちは、よく手製の花火を作って上げた。火薬を調合して、竹筒・真ちゅう管に詰めて、「手筒」・「打ち上げ花火」を作った。火薬は、硝石、硫黄、木灰等を薬研で混ぜ、硝石と硫黄の割合が10対1の火薬(とにいち)、15対1の火薬(じゅうごいち)等を作った(上重原町伝承)火薬は、雷管(ピストル用)を崩して集める方法もあった。(西丘町伝承)・・・

知立市史には、以上のような記述も見られ、戦前には「手筒花火」がこの地方の一般的な遊びのひとつだったと推察されます

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