癌封じ寺

西浦山無量寺
 


 形の原 牧原又兵衛 平成14年5月23日

所在地・・蒲郡市所在西浦町日中

宗派・・・古義真言宗、醍醐寺の末寺

本尊・・・不動明王

境内・692坪

縁起・貞観元年(859)真雅僧正の開創した古刹

村上天皇の「946968」御宇、天皇の大伯尼公は都の繁華を嫌い江山

勝概の地に寺院を建てて、その処に閑居を望まれました。源満仲912997(多田源氏の祖清和天皇の孫経基の子).吉良岡山に荘園をもっていました。その処に無量寺が在りました。先ずは東林坊良久法印なる祈祷師が居りました.(無量寺と同じ処に居をかまえました.)東林坊は形原郷一円を権力内に収めて居ました。そして寺領を倍増した。天暦五年「951」伽藍を建立して尼公をこの地に迎えた。と伝えています。また、徳川氏の先祖である松平信光の子松平紀伊守光重

一説には形原松平の祖といわれる。一般には後見と言われている。大草松平と言う」が形原に居る時寺領二十石を寄進した。

岡山は満仲の荘園なる故最初尼公其の地に着いたものと推察される其の後この地に移り住んだと思われる。

 

当寺は昔から開運と厄除けの西浦不動で知られる.(之は明治蒲郡の薬証寺より英泉上人和尚が入寺してより盛んとなる。

当初は天台宗であった.東林坊性海「1730」によって真言宗に改宗したと思われる.その昔開山上人が全国行脚の砌当地を訪れ絶景の三ケ根山中で荒修行をしておられると不思議な事に突然日頃の信仰仏不動明王が眼前にお立ちになり・・(この山裾三丁南、海岸より三丁北の丘は正しく密教(大乗仏教の中の一系統真言・天台と同じ)相応の霊地なり。庵を結び厄除け誓願の我が不動像を刻し衆生済度に精進すべし必ず諸人の苦患を救うなり))と、感得されたのです。

有難さのあまり簸伏すこと、暫しやがて近く霊光輝く大木に念力一心を込めて尊像を御刻みし瑞雲たなびく現在のこの地に堂宇を建立したのが寺の始まりです。

此れが秘仏の御本尊厄除け西浦不動と称す所以であります。

蒲郡市では最古の寺とされています。以上伝説です。

約四百年後正平年間「1345」御村上天皇(南朝)一行が、三河湾を航行中、海難に遭い帝は篠島へ伯母君一行は西浦岬に無事着き、当山に留身され尼公となられる。当寺は多田満仲の力により寺領を倍増され一時は末寺数ケ寺、寺周囲数百町に及ぶ事も在りました。『宝飯郡誌』によると金平・一色が寺領であったとのことです。織田信長に依り封戸を削られ、末寺も廃されましたが、その後元和年間には松平紀伊守の御帰依あり利益あるため寺領三十石を寄進され御願所として寺門再興された。しかし、寛永十七年に天災に罹り灰じんと化したが東林坊良円・性海など立派な上人が現れ』不動の御感徳を世に広め再再興なり厄除けの祈願霊場として今日にいたりました。戦後現和尚の並々ならぬ熱意と発想(癌封じ寺)によって益々盛んとなっています。

尚、戦前は旧暦一月二十八日に行われる不動大祭一日の上がりで一年の賄いが出来たとのことです。

   寺伝によると南北朝の頃96代御醍醐天皇の皇女がこの寺に入って住まわれたと伝えています。

    無量寺に閑居されたのは、村上天皇の大伯尼とされています。

御村上天皇の御一行の漂着は吉良町木田正向寺北畠親房の次男である顕広が御村上天皇を奉じた事蹟を誌した.古記録が現存していまして、その記録によりますと御村上天皇を稲良親王と申し上げていました。亦顕広は御村上天皇より伊奈姓を賜る、この地方は伊奈・稲吉の姓あり、正統の護良親王の身代わりであられた義良親王を御村上天皇と申された。

   無量寺では妹宮懂子内親王が本命説「馬込御前」宣政門院光厳後宮

興国元年五月三十日出家

田土社の御神体は蛇―――腫物が治ると言われる。

西浦の蛇神様は無量寺に居られたと伝わる(三重の多度神社と関係有り)。

かん子内親王をのちの蛇神として御祀りしたと思われる。

蛇神は弁天で女神、水神、田の神、稲荷の意でもあり、かん子内親王は

お巳いさま、弁天様として各所に祀られる、当時は本地垂迹説(祭事に用ふる削掛もしくは紙幣)による権現信仰が盛んな時代でかん子内親王を水神・稲荷・弁財天女を権化として信仰した。

●寂は補陀寺(現在の)の少し上にあった観音寺で寂す。(現補陀寺観音)

もう一つは現大松の根元にある五輪の塔から見て当寺で寂す。二通り有り

   宝飯郡誌によると

所在地・日中          坪数692坪真言古義派・開祖真雅僧正貞観元年三月三日859

当院は六十二代村上天皇の御宇946966天暦五年の建立なりと此処に天皇   

大伯尼公・帝に奉じて曰く都会の地繁華にして素意を遂ぐるに憚らず、如何に江山勝概の所に寺院を造立し其の処に栖まばやと給いければ多田満仲917992は当国吉良岡山城に主たり、故に当地を撰び一院を創建する。然して後

尼公此処に移りて住し給う、其の頃、形原に東林坊良久と言う、台家碩学の徒あり『修験僧』詔して尼公を是に嫁がしめ、灯油料として、形原平地戸金の三邑を寄付なし給う。去る年歴を経て、天正年中織田信長の宗教弾圧(特に天台宗)の為に、三所の寺領を失うと云えども、其の後池田三左衛門輝政当国吉田城主たりし時毎年永楽三十貫(三百石)を喜捨する。松平紀伊守形原領するに至り、田地二十石を施し、次いで松平庄右衛門尉形原掌りし時田園三カイ附与せり、而して東林坊の号は当寺の俗称ならん、また宸賜の品目を考経るに、不動の像『智証大師』・十一面観音の像「一寸八分の金仏尤も閻浮檀金と」旧記にあり鋳工詳らかならず。今境内内・白山神祠に安置する。亦尼公の守本尊と称する。三国伝来観音像一体『板金凡そ八百年前立ち四寸二分上横二寸五分下横参寸参分佳良の品なり』も境内白山神祠に安置する。又慈覚大師作の馬頭観音・不動・毘沙門の三尊を采地戸金村に一寺を構えて安置し補陀寺と名付け墳墓の所と為す。寛永十七年庚辰三月上巳日祝融の為惜しむべし、奇宝叢書に至るまで烏有に帰せり。一考を要す

◎旧蹟          四町松西浦山無量寺境内に在り往古無量寺は方四町を以って寺の境域となし、四隅に松を植え今に以って之を四町松と云いつたえられる『現在無し』

   尼塚.坪数一坪五輪塔を存す『村上天皇の大伯尼か、かん子内親王の墓か

   内裏松。禁裏より移した五葉の松あり寛永の火災で焼失(56再植えする)

   付属仏堂――ガン封じ堂

観音堂・白山祠・大黒堂・ぼけ封じ堂・不動滝

昔は八十八ケ所の祠があったが今は少し残るのみ。

 

   本堂…平成三年に工費六億円をかけて竣工する。

   七重の塔――(中国の西安・唐時代に模した造り。

   宝物殿―――「唐の高僧玄奘(三蔵法師)に関係敦煌もにせてある 

   西浦小笠原の姓の起源は

新羅三郎義光――――略―――三好彦三郎長晴(信州伴野城主)

霜月騒動にかかわり信州立石城にて討ち死にする「一説には中山豊橋

太陽ガ丘で激戦があったとのことです。そこで小笠原に戻る。その子

長義は幡豆に逃れて寺部の城主となる。また、一部は高天神に逃れる

幡豆の一部は欠城にも移り住む。そうして戦国の世も終わりに近くなり

大坂の戦があった。豊臣方の中に小笠原権之丞という武士がいた。一匹

狼的な存在であったようだ。戦の最中知らぬ間に行方がわからなくなった。い

何時の間にか幡豆に姿をあらわしていた。そしてキリシタンになっていた。

(一説には権之丞は家康之隠し子と言う噂もあり行動が不自然だらけキリシタン

ガ発覚し一夜にして潰される。時に権之丞に二子有り、家老(大竹)に連れられて

三ケ根観音に逃げ込む。其の子の一人は家臣によって岡山『華蔵寺付近』に落ち

住む、家臣は大嶽姓をなのる。もう一人は東に下り西浦の無量寺に身を寄せて

東林坊を次ぎ良円を名乗る。着いてきた家臣『大嶽・大竹』は袋川沿いに住んだ。小笠原の子は次第に大きくなり住職の尼と懇ろになり、尼裳も

還俗して四人の子供をもうけ西浦に四散し今の繁栄をみるのでした。

本当かどうか皆様之御創造に任せます。

小笠原姓は西浦・形原を合わせて約90戸位です。檀家寺は補陀寺です。

無量寺は真言密教ゆえ檀家をもたない寺です

小笠原一族の墓は無量寺南東の旧境内の一角にあります。中心やや北寄り

に石碑『高さ二米』『幅一米』位

           ()・・寛文十年正月・1670

権大僧都通方良円法印

                      小笠原一統大先祖・東林坊

           『陰』小笠原一同・昭和十二年六月建之

歴代住職の石塔も十数在り・一般の墓多数在り・小笠原氏のみ。

石碑         岡崎市能美           不動様高サ2米位幅1・5米

『陽』西浦村尾崎太郎右衛門ハ

         明治十五年十二月十五日夜伊勢

         海ニ於テ出漁中誤って海中ニ

         落チタルヲ当山不動明王ニ救

         助セラル依ッテ其ノ子一同ニテ

         建立ス

『陰』尾崎松次郎外十名・古く

         名前・住所判読できぬ者あり

太郎右衛門は西浦村下地の漁師でしたが、十二月十五日出漁中突然不明となる二日経っても三日たっても帰って来ない否半年も過ぎても、音信不通、地元では神隠しに在ったのではないかと、皆忘れかけた頃、西浦の人が岡崎能美の不動様にお参りに行くと,なんとあの太郎右衛門が,寺男となって寺の掃除をしているでわないか,本人に色々と問い尋ねると、表記の他は全然覚えていないとの答えが、帰って来るのみでした。健忘症に罹ったな、とおもはわれた。そこで、納得ノいく迄話をして,やっとの事西浦に連れ帰ってきました。それより話ニ華が咲き,益々西浦の不動さん(無量寺)祭りも盛ん妬なりました。

漁師裳其の日は全部休んで祭りに参加しました。